2014年2月3日月曜日

こどもだましの「積極的平和主義」







 
当然のことだが、政治家はひとをだましてはいけない。ところが、周知のとおり、むしろひとをだますことが政治家のしごとか、というようなことが横行している。いまそのひとつひとつをあげて論じようというのではない。安倍晋三がもちいる「積極的平和主義」の語が、いかに意図的にひとをだますために使用されているのかということをのべ、このことばを、ただちに「積極的暴力主義」にあらためていただきたいということをのべる。すくなくとも、そのようにいえば、安倍の論は一貫したものになる。ここでは、安倍のこうした「安全保障戦略」の是非についてはおおくをのべない。その前段階として、かれの不誠実なことばづかいを批判することにおもきをおく。
まず「平和」について。「平和」についてのウィキペディアの項目をみて、その「リアリズム」におどろくと同時に、絶望的ななきもちになった。その冒頭には以下のようにある。
「平和(へいわ)とは、戦争や内戦で、社会が乱れていないこと。現実的には国家の抑止力が内外の脅威を抑止している状態である。史学的には戦間期(interwar)とも表現され、戦争終結から次の戦争開始までの時間を意味する。」(ウィキペディア:「平和」)
これにつづけて「概要」では、以下のようにいいきられている。
「人類の歴史は、戦争の歴史である。人類は戦争を繰り返し多くの生命、財産を消失しているが、戦争により、人類は発達した文明を築いている。現代社会は、核兵器の存在によって、核兵器保有国同士の大規模な戦争は抑止され、一応の平和が保たれている。現在でも国家間の軍事力の均衡が戦争を抑止しており、戦火を交えなくとも外交や経済を主軸とした、国家間の生存競争は絶えず行われている。異なる国家が隣接して国境が策定されている場合は、おのおのの国家が軍隊を組織して常時軍事的緊張を保っており、軍事力の均衡がまったくない平和は存在しない。」
ウィキは、しばしば他言語のサイトからの翻訳だったりすることもおおいので、ぼくがよむことができるフランス語と英語のページをみてみたが、このような記述はなかった。
“Peace is an occurrence of harmony characterized by the lack of violence, conflict behaviors and the freedom from fear of violence. Commonly understood as the absence of hostility and retribution, peace also suggests sincere attempts at reconciliation, the existence of healthy or newly healed interpersonal or international relationships, prosperity in matters of social or economic welfare, the establishment of equality, and a working political order that serves the true interests of all.” (Wikipedia : “peace”)
(平和とは暴力やあらそいの行為がないこと、そして暴力にたいする恐怖から自由であることによって特徴づけられる調和の生起である。敵対や報復の不在として一般的には理解されるので、平和とはまた、和解への真摯なこころみ、健全であらたにおりあいをつけられたひととひと、くにとくにとの関係の存在、社会的あるいは経済的な福利の繁栄、平等の確立、そして、万人にとっての真の利益にやくだつしっかりとした政治秩序の存在を暗示するものである。)
« La paix (du latin pax) désigne habituellement un état de calme ou de tranquillité comme une absence de perturbation, d'agitation ou de conflit. Elle est parfois considérée comme un idéal social et politique.
Dans la mythologie grecque, Irène ou Eiréné est une divinité allégorique personnifiant la Paix. » (Wikipédia : « paix »)
(平和(ラテン語のpax)とは、通常、攪乱や動揺、紛争のないしずかで安静な状態を意味する。またときに、社会や政治の理想とみなされることもある。/ギリシャ神話では、エイレーネーが平和を人格化する寓話的神性である。)
このように、これら英仏語のページでは、「平和」の中心的な語義が冒頭にのべられている。まずは、だれかが、このはずべき日本語の「平和」の項目をかきかえることからしなければならない(ぼくにはその能力がないのだけれど)。
こんなウィキの記述があるようなくにだからなのだろうか、安倍のとく「積極的平和主義」は「平和」の概念を歪曲し、さらにそれを「積極的」で粉飾することで、あたかもそれが「平和主義」を「積極的」に推進するものであるようにみせかけて、実際には逆のかんがえをおしすすめようとするものだ。かりに「平和」が、その語義がもつような理想的な状態をさすものとしてつかえるほどあまくないのだということをみとめたとしても「平和主義」はそうであってはいけない。これはイデオロギーの問題ではなく「主義」ということばのもつつよさの問題である。「〜主義 / -ism」とは、「〜」を原則とするということで、そのとき「〜」は、めざすべき理想でなければならない。したがって、すくなくとも「平和主義」における「平和」とは、「戦間期」でもなければ、「軍事的緊張を保」ったうえのそれでもなく、「社会や政治の理想」としての「社会的あるいは経済的な福利の繁栄、平等の確立、そして、万人にとっての真の利益にやくだつしっかりとした政治秩序の存在」といったものであるはずだ。これが大前提にならなければ、いかなる現実的な「平和」を希求することもできない。
つづいて「積極的平和」について。この用語はもちろん安倍のうちだしたものではなく、学術用語として提案されたものであることは、すでに各所で指摘されている。
「積極的平和は1942年、米国の法学者クインシー・ライトが消極的平和とセットで唱えたのが最初とされる。その後、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥ ングは消極的平和を「戦争のない状態」、積極的平和を戦争がないだけではなく「貧困、差別など社会的構造から発生する暴力がない状態」と定義した。」(神奈川新聞2014130日、坪井主税・札幌学院大名誉教授の発言引用。参照URL : news.kanaloco.jp/localnews/article/1401300008/
つまり、「積極的平和」とは、戦闘による「主体的」な暴力だけではなく、上記のガルトゥングによって「構造的暴力」とよばれる主体が特定できない暴力をふくむ、あらゆる暴力から解放された状態のことであり、これによって獲得される安寧をしめすものである。「〜主義」が「〜」を原則とし、その意味で「〜」の理想を念頭におくことをかんがえれば、「積極的平和主義」の意味とは、いまのべた意味での平和を希求することを原則としたかんがえや姿勢であるはずである。しかしながら、この用語をいたるところで連呼しながら、安倍は、集団的自衛権の行使容認に意欲をしめし、武器輸出三原則について、撤廃をふくめたみなおしに着手し、靖国神社を公式参拝し、「構造的暴力」の最たるものである原発の再稼働をすすめようとしている。
この意味で、安倍は二重に、そしておそらく意図的に「積極的平和主義」の意味を歪曲し、自分の「主義」について、あやまった認識を国民にあたえようとしている、あたえてしまっているとしかいいようがない。安倍の「積極的平和主義」は「平和主義」ではない。安倍はなにをいってもよいが、上記の言動をみるかぎり、「平和主義」の語をつかうのは矛盾である。ぼくは、かりに自分が安倍の言動のすべてに賛成するものであったとしても、安倍がそれを「平和主義」とよぶことには反対するだろう。そのぐらいまちがっているし、まちがっていると指摘しなければならない。
第一に、安倍は平和学で提唱される学術用語を不当に「援用」し、その意味を歪曲している。安倍はガルトゥングをしっており、日本語ではこれを「積極的平和主義」といいながら、英語では別の用語におきかえていることもすでに指摘されているとおりである。まごびき(再引用)になるが、以下は、東京新聞の記述を安井裕司がまとめたものをである。
「安倍政権の勉強不足かと思いきや、20131019日付けの東京新聞では、安倍政権はガルトゥング氏らの「積極的平和」=Positive Peace論を(知っているのか、知らないのか)敢えて海外ではPositive Peaceという言葉を避けていることを指摘しています。
記事では、安倍首相が米国の保守系シンクタンク・ハドソン研究所で先月行ったスピーチにおいて、「積極的平和主義」をProactive Contributor  to Peaceと言っており、和訳すれば「率先して平和に貢献する存在」となり、前出の坪井教授は、Proactiveでは軍事用語では「積極的平和」=Positive Peaceの意味ではなく、『先制攻撃』のニュアンスで受け取られるとしています。しかし、そのスピーチも首相官邸のホームページ上では「積極的平和主義」と訳されており、坪井教授は「言葉のマジック」と言われています(東京新聞、20131019日)」
(安井裕司ブログ『グローバル化は足元からやってくる~国際学で切り取る世界と社会~』:http://www.quon.asia/yomimono/business/global/2014/01/15/4562.php#pageHeaderArea
安井はおなじブログ記事で、「学問上、新たな平和学の定義を構築しても問題ないのですが、その際は、ガルトゥング説を踏まえて論じていくべき」であるとただしくのべているが、英訳を改変するということは、確信犯的におなじ用語を別の意味で使用している(そうでなければ不勉強もはなはだしい)といえるものであり、誠実な言論にたいする姿勢とはいいがたい。
では、なぜ安倍はこのような姑息な手段にうったえてまで、「積極的平和主義」にうったえたのか。これは「平和主義」を歪曲することにくわえて、「積極的」の語がもつ多義性にうったえて、「よい意味のことば」をねつ造しようとしているからにほかならない。これが安倍による第二の歪曲である。そうでなければ、この誤用を、安倍の極端に不十分な日本語能力によるものと判断するしかない(そのほうがまだましであることはいうまでもなく、「まちがえました、「積極的暴力主義」でした」と訂正すれば、安倍のかんがえがクリアになり、すくなくともよくわかることをいっていることにはなる)。
「積極的」というのはpositiveの訳語としておそらく明治期につくられたもので、『広辞苑』(第五版)の「積極」の項にはつぎのようにある。
「対象に対して進んで働きかけること。静に対して動、陰に対して陽、その他肯定・進取・能動などの意を表す語。」
「平和」が主として「静」のイメージをもつ語であることをかんがえると「積極」にある「動」のイメージとの矛盾があるような印象がもたれるだろう。しかし、そのことによって、「積極」によってしめされる具体的な行動が、「平和」の意味に矛盾するものであってよいということではない。ガルトゥングにしたがえば、ただ戦争がないというだけでは、平和は消極的なものでしかなく、貧困・差別などをなくすような「積極的」なアクションをおこしていかなければならないというのが、ここでいわれる「積極」の意味である。つまり、「平和」のもつ「静」のイメージにひっぱられることなく、「積極的」にそれを希求してゆかなかければならないということ。これにたいして「安倍」の意味する「積極」とは、「平和」との語義矛盾を辞さない「動」としての「積極」で、「平和を維持するために、軍事力を増強する」と解釈できる。これはたしかに、「積極=動」「消極=静」のイメージに合致する、なにもしないでいるのは消極的平和主義、平和を維持するために軍備を増強するのが積極的平和主義という図式である。また、「積極」は「ポジティブ」なので、「よい意味」でつかわれることがおおい語でもある。「積極性のあるひと」はよいひとだし、「積極的に発言する」のは議論にとって有効である。したがって「平和主義」にかかる語としての「積極的」がわるい意味のはずがないと「積極的平和主義」は予想させる。しかし、そこにガルトゥング的な意味ではない、別のものをしのびこませたのが安倍流の「積極的平和主義」であり、坪井主税が「言葉のマジック」というものであることに、ぼくたちはどうしても気づかなければならない。「どろぼうや暴漢がいないからと平和をかんじているだけではいけません。いざというときにそなえて、各家庭に銃を1丁そなえるようにしましょう。愛するうつくしい家族のために」というのが安倍流の「積極的平和主義」、「どろぼうや暴漢がいないからというだけで平和だとおもうだけでなく、どろぼうや暴漢になろうとするひとがうまれないような、貧困や差別のない社会をつくっていくために具体的に行動してゆきましょう」というのがガルトゥング流の積極的平和主義。どちらが「平和主義」の名にふさわしいかは、議論するまでもないことである。
ところで、理想と現実が天秤にかけられ、理想はそうかもしれないが、現実にはこうなのだから、それに即してこうするしかないではないか、というものいいのパターンがある。原発を将来的にゼロにするために再稼働します、平和のために軍備を増強します、といったものがそれにあたる。そして、政治家はそれがとても得意である。「積極的平和主義」でも、ぼくの以上のような議論について、冒頭にしめしたウィキのような「平和観」で応酬されるであろうことはめにみえている。武力を前提にしない平和は、いまや想定できないものであるというものいいである。最初にもかいたように、いまのぼくには、このことについて十分な議論をする用意はない。しかし、もしそうであったとしても、だからといって「平和主義」の語のなかの「平和」にそのような「現実的」な意味をあててはいけない。何度ものべてきたように「主義」とは理想をかかげるものである。安倍がいおうとするようなことで「平和主義」をかかげているようでは、そもそも平和についての意識のスケールがちいさすぎるし、すでにのべてきたような誤解をあたえ、それが「平和」なのだと「平和」そのものの意味がすりかえられてしまう。いったい安倍は、こどもたちが「平和っていうのは、戦争と戦争のあいだの時期のことだよ」と理解してしまうかもしれないことに何の抵抗も感じないのか。正直に(現状にもとづいた)「積極的暴力主義」というか、かんがえをあらためるか、ぼくは後者のほうがいいけれど、即刻検討していただきたい。ひとをだましたり、ごまかしたりしてはいけない、おもっていることがどんなことでもいいから、せめてきちんとしたことばでのべてほしい。そうでなければ、まともな議論さえできない。そしてそんなことを国家のトップになぜいってきかせなければならないのか。

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